インドオーガニックコットン産地レポート 2004年10月31日~11月10日
【NOC】日本オーガニックコットン流通機構 理事長 宮嵜道男

額にヒンドゥ教の赤い印をつけ、首に花飾りをかけてもらい歓迎されました。

10月中旬から11月はインド中部地方の綿花の収穫期です。
今年はこの収穫ともうひとつ特別の意味のあるイベントがあるということで産地を訪れました。
1992年から始まった有機農業への転換事業(マイカールビオリプロジェクト*注1)が実を結び農業者たちが自立し、綿花は質的にも量的にも向上しました。
この成功に、地方自治関係者も功績を認め、事業の意義が広がってきています。
更にこの有機農業が定着し、前進させるためには、教育訓練が重要ということになり、オーガニック農業訓練所の開設が計画されました。
用地確保も進み、建物の建設も一部始まりました。
この訓練所の建設が本格化するのを前に、お祝いのイベントが催され、綿花原料を輸入するプロジェクトの支援者という立場で、正式に招待され、参加しました。



綿を運ぶ牛

日本よりムンバイ(旧ボンベイ)へ飛び、更にそこから2時間くらい空路で 内陸に入ったデカン高原の人口300万人の都市、インドーレに到着。そこから野を越え、山を越え、バンピーロード(デコボコ道)をひたすら突っ走り3時間。途中牛の群れ、羊の群れ、おまけに象まで歩いている側をけたたましくクラクションを 鳴らして追い越してゆきました。

私は、体を 硬くして前の座席を両手で掴み、急ブレーキのたびに「ヒーッ」という悲鳴を あげていました。隣に同乗していたスイスからの女性デザイナーのエリエン さんは、「車の外は見ない方がいい。神経がおかしくなるわよ。」とアドバイスして、ご自分は、さっさと腕を組んで眼を閉じ、眠ってしまいました。 たいした肝っ玉だと感心しました。

「あと20分位だよ」というドライバーの声がしてから、周囲は綿畑に包まれました。白い綿花がチラチラと見えます。聞くと、もう大方収穫した後で、最後の摘み取りをするところ、とのことでした。 そういえば、綿を山のように積んだ牛車を何台も追い越してきていました。

この地域のオーガニック農場は、零細農家をとりまとめ盛り立て援助している会社によって、成り立っています。 スイスの商社リーメイ社とスイスコープ(生協)が協力してこの貧困救済プロジェクトを10年にわたって進めています。 (株)パノコトレーディングは早くからこのプロジェクトに賛同し、積極的にこのプロジェクトの綿糸を輸入することで、具体的な支援を行ってきました。 この実績が認められ、この度の大事なイベントに正式な支援者として招待されたものでした。 新たな事業のステップアップとしてオーガニック農業訓練所建設の土台づくり、石積みの儀式や植林の儀式にスイスをはじめ、多くのヨーロッパからの人たちに混じって、唯一日本人として参加しました。

会場には、市長他、地域のリーダー、そして農家の人々など、1500人以上が一堂に会して祭りは繰り広げられ、私たちを歓迎してくれました。 東アジアから来たのは私一人で、私の周囲には、人垣ができる程人々が集まってきました。 私の家内はよく、「あなたの顔は1時間過ぎると思い出せない顔ね」と言いますが、それ程特徴のない、こんな平坦な顔が、こちらの人たちにはよほど珍しいらしく、そばに来てマジマジと眺めてゆきます。 ふと気がつくと大群衆が皆、私を見ています。 何か有名人にでもなった気分でしたが、反対に、珍獣を見る好奇な眼だったかどうか定かではありません。


左・会場
右・ラジブ氏

歓迎の証に手植えの儀式があり、防虫のための 木であるニームを植え、名前をつけていただいた。

45℃を越す酷暑の中、乾いた畑で日々繰り返される農作業に耐えるこの人たちにとって、
このように外国から支援者が沢山来ることは、それだけで自分たちの仕事の意義を知り、
おおいに力づけられることになるんですよ。

と語るマイカールプロジェクトのリーダー、ラジブさん。
この言葉に、このプロジェクトに参加したこと、オーガニックコットンの仕事をしていることに誇りを感じることができました。

リーメイ社*注3の社長ホフマン氏は、このインド中部の農村の他、アフリカ タンザニアの貧困農村をオーガニックコットン農場に転換して、救済に成功しました。
この二つのプロジェクトが、ヨハネスブルグ環境サミット注*4でスイスコープと一緒に表彰されました。

パノコの取り扱い商品の中で、Tシャツや化粧用コットンには、タンザニア産のオーガニックコットンが使われています。

ホフマン氏
パノコはこの他、1996年頃、ペルーからも大量のオーガニックコットンを輸入しました。
当時、フジモリ大統領の時代で、大統領の強い意向で、多くのコカイン(麻薬)の畑の撲滅が行われました。
それによって、行き場を失った、主にインディオの貧困農民に、積極的にオーガニックコットン栽培に転換してもらうよう指導し、成功しました。そして、この綿を積極的に輸入し支援しました。 *注5

 

以上のようにNOCコットンは、農薬を使わないというエコロジーの意義だけでなく、貧困地域の救済支援が背景にある原料を選択的に採り入れています。
オーガニック認証の基本規定を定めたIFOAM(ドイツ)の認証の中には、もともと不当な労働搾取や子供の就労を禁じている項目があります。

また環境サミットの中でも、1日に1ドル以下で生活する人たちを助けるというテーマが討議されています。
環境エコロジーというのは、農地が不当に疲弊し、生活に困窮する人々を助け、正しい農業に変えてゆくことがテーマに必ず入っています。
貧困が起きる原因の一つには、力のある農薬会社が、手間がかからず、収穫量が増やせる近代農法というふれこみで、農薬を大量に使わせる農法を、世界の奥地の農場まで広めたことがあります。
知識も乏しい農民に農薬を使わせ、いきなり借金を背負わせ、収穫物を買い叩く、次第に土壌が、過剰な農薬の為、変質し、収量が落ち、農家の収入は借金だけとなり、生活は悲惨な状態になります。

NOCのすすめる救済の考え方は、オーガニック農場に切り替えて認証をとれば、一般綿花相場より高く買い上げようというものです。
オーガニック農法では、農家が農薬や機械など新たに買い入れなくてはならないものは、ほとんどありません。
農村には、あたりまえにある野菜の残滓や家畜の糞などから堆肥肥料を作り、害虫に対しては、忌避効果のある薬草(ニンニク、インドセンダンなど)を効果的に使い、綿は手で摘んで収穫します。農薬も、機械も、電気も要りません。
豊富な人手で十分行え、綿花も高く売れるので、農家は十分な食事ができ、家を直し、家畜を飼い、子供を学校に通わせることができるようになります。
また、農薬の薬害で、主人が病気になるなどの悲劇もなくなります。


これからオーガニック農場に転換しようとする 農家の家の様子


堆肥ニームを水に浸しておくと、にがい水ができる

人々の後ろにある高い木がインドセンダン。


綿畑のそばに植えている綿につく虫


この水を、この噴射器でスプレーする。

私たち日本人には、当たり前の日常の生活ですが、世界レベルで見ると、とてつもなく豊かな暮らしをしています。
例えば、労働せず、学校に通える子供たちは、世界では20%に満たないのです。
80%以上の子供たちは、大人と同じように労働に明け暮れ、着の身着のまま生活し、いったん病気になると、治療も受けられず、死んでしまうというのが現実です。
私たちの生活の方が世界的に見ると珍しいということを知って欲しいと思います。

この度、インド奥地の農場を訪ねて、人々のあまりにも低い生活ぶりを知りました。
同じ地球上で同じ時間を過ごす人間同士、なんとか助けたいという思いが湧き上がりました。
ただ、農村の人たちは、生まれてからずっとこの状態で過ごし、外の世界を知りません。
だからでしょうか、表情は決して苦しそうではなく、むしろ素朴な晴れ晴れとした眼をしていました。
しかし現実は、生と死が毎日身近にあり、宗教にすがって納得するしかない人生です。
平均寿命が70~80歳という十分行き届いた国からは想像もつかない厳しい別の世界です。
綿の産地なのに、人々は粗末な服しか着ていない矛盾。
日本には、洋服ダンスに収まりきれないほど服があふれています。
不用な服を寄付してもらい集めて、送ってあげたいという気持ちが起こりました。
服ばかりでなく、シーツとか毛布なども必要です。

今回の旅は色々と考えさせられることの多い旅でした。30歳の頃に来たことのあるインドですが、20年たっても全く変りありませんでした。
地元の人は1000年変わらないと笑っていました。
20年前はただ好奇心の赴くままにそのままで受け取れましたが、54歳になった現在の眼から見ると、全く違った受け取り方をしていました。

私自身、色々なものを見、色々な経験をし、子供を育て、親の死を看取り、人生について考えるようになっています。
生きるということは単純でよい、難しく考えることではないということを教えられた気がします。
これがオーガニックライフの真髄かな、と思いました。

あるがままに受け入れ、自然のままのものを尊敬して、愛でるセンス。これこそがオーガニックライフです。

※注釈
注1 マイカール ビオリ プロジェクト
ARADA地域のオーガニックコットン農場開拓

中部インド、インドーレの郊外ARADAの農村は、従来、綿の他に、とうもろこしや、自家用の穀類を細々と栽培する貧困農家の集落であった。
農薬業者より農薬を使わないと行えない農法を教えられ、農薬の使用量を増やしてゆき、結果は、土壌が衰え、収穫量も減り、農薬購入の借金が残り、ますます疲弊していった。
1992年からこの地域の農業をたて直すために、3エーカー程度の農地をもつ零細農家35軒を対象に、有機農業への転換プロジェクトがスタートした。

このプロジェクトを推進するのは、スイスの会社、リーメイ社、そしてスイスコープ(生協)更にインドの救済運動組織EKTA *注2が協力して行っている。
紡績糸に向く、質の高いオーガニックコットンの栽培を指導し、有機認証を取得させ、一般綿より高い価格で買い上げて、経済力を回復させる。
その結果、以下のような効果が現れた。
・土壌が活力を回復し、生産量が戻った。
・害虫対策が功を奏し、収穫量が高い水準を維持した。
・人の手間はかかるが、支払うべき農薬の代金などがなくなったため借金から解放された。
・農民の薬害による健康被害が激減した。
・地域の川や土壌や周辺の植物など、自然環境にも良い影響を及ぼした。
・2001年時点で、1000軒の農家8000エーカーの農地、オーガニックコットンの収穫量2362トン、紡績糸532トンを生産するに至った。

注2 EKTA PARISHAD の運動
インド ヒンズー語でアクタパリスハッド、英語ではUNITED FORUM(合議連合)
設立1991年、正会員数15万人、支持会員50万人
<目的>

インドに於いて、個々に権利を主張できない弱い立場の人々を守ろうとする政治的組織。
農民、地方の労働者、山間部に住む人々で、人口統計にも入らない階級(カースト)の低い何億人とも言われている人々を対象とする。

<運動の内容>


政治的な圧力団体というより、この主旨に添って活動する政治家を支持することで間接的に係る。
インドでは、過去にも一般大衆の支持を得て具体的な目的を達成するという例が多くある。
例えば、1970年ごろ、政治学者のラジニ コハリ氏(RAJINI KOTHARI)は、政党に属さない芸能界で活躍する人たちで組織を作り、社会の貧困層を減らすため、民主主義社会化の運動をすすめた。

EKTAの運動では、MADHY州、PRADESH州、BIHAR州、ORISSA州の4つの州を対象に少数部族の人々の土地の権利を守ったり、森林保護に力を注いでいる。 この運動には、有力な指導者ラジ ゴパル氏(RAJ GOPAL)が各州の足並みをそろえて、ひとつの大きな力にまとめ上げるという重要な役割を果たした。

この組織の特徴は、かのガンジーの地方分権と徹底した非暴力主義を貫いている点である。

注3 リーメイ社
リーメイ社(スイス)は、インドだけでなく、アフリカ タンザニアでもMEATUプロジェクトを1994年からはじめ、成功させ、現在に至る。
2001年で450軒の農家、4366エーカーの農地で、180トンのオーガニックコットンを収穫できるようになった。

ヨハネスブルグ環境サミットに於いて、この功績が認められ表彰された。
現在、インド、マイカールプロジェクトとタンザニア、マトウプロジェクトで1900の農家を支援する規模に拡大している。

注4 ヨハネスブルグ環境サミット
2002年国連総会の決議A/RES/55/199に基づいて開催される環境保全をテーマとする国際会議。

リオのサミットは、ロードマップ(道路地図)づくりサミットと呼ばれ、ヨハネスブルグサミットは、ルートプラン(道順)づくりサミットと位置づけられている。
目的は、持続可能な開発と環境保全に関する具体的な事案を討議する。

<内容>

  • 地球温暖化温室効果ガス排出の問題
  • 過度の経済競争による資源の浪費と地球環境を損なう生産方法の検証
  • 地球環境と人類の健康の保全ができる開発方法の検討
  • 再生エネルギーの利用率の目標値設定
  • 気候変動枠組条約の検討
  • 生物多様性条約の検討
  • 貧困の撲滅
  • 1日1ドル未満で暮らす人々の比率を半減させる目標設定
  • 安全な飲料水が供給できていない地域を半減する目標設定
  • 各国GNPの0.7%をODA支出にあてる目標達成計画

 注5 ペルーからの手紙
(株)パノコトレーディング様へ

お世話になっております。 先日来、貴社および EMPRESA PAKUCHO PAX の代表者と打ち合わせてまいりました件について、その背景をご説明いたします。まず私の立場は当地域の農業掲載を振興させることであることを申し上げます。ご存知のように、当地で栽培されている原綿は無農薬有機栽培です。こうした耕作方法がとられている耕地面積は現在8000ヘクタールあり、その大半がインディオ共同体の手によって運営されております。 そこでは伝統的な農法が行われ、この地の自然環境とも、地域経済とも完全に調和を保っています。

当地で行われているコカの葉の不法栽培(ただし、加工、販売は他の国で行われています)を止め、環境と共生し、経済的にも持続可能な農業を模索することは、国家の政策でもあります。 綿の栽培がこれに代わってゆく可能性が最も高く、農家への支援が必要と考えています。

他方、EMPRESA PAKUCHO PAX より当方に送られた文書を見ますと、サンマルチン地域の綿糸とともに PAKUCHOが入手した糸やその他の製品は、ECや他の先進諸国の基準に照らし合わせて必要な品質管理条件や保証をすべて備えています。 そこで日本での販路の開拓をし、天然綿や自然有色綿の供給を増やすために、是非とも貴社にお力をお借りしたく、御願い申し上げます。 そして、農村と当地域の発展を促進させるという我々の最優先目的にご協力いただきたく思います。 どうぞよろしく御願い致します。

サンマルチン地区
地域経済振興暫定委員会
委員長
リカルド・マルケス・フローレ

この手紙は、パクチョ社がペルーの会社であり、アマゾンのジャングルで採れたペルー原産のカラーコットンを生産していることをお知らせするものです。
この生産は、コカインの畑から転換されたものであり、オーガニックな管理のもとで行われています。パクチョ社は小さい村落のインディオの人と共に働いています。また特筆すべきは、この綿花はバルバデンセ種で比較的繊維が長く、柔らかく、白・ベージュ・チョコレート色など幅広い色調をもっています。 もちろん、人工的に染めるというようなことはしていません。この自然から生まれたカラーコットンは、4,500年前から当地ペルーの先祖がタピストリーなど布製品に利用していました。 色は今日にいたるまであざやかで、強さを保っています。現在このカラーコットンのプロジェクトは、ペルーのために新しい雇用を創出し、国際市場へ拡大し、コカイン栽培から正しい農業への転換を推進させています。

(株)パノコトレーディング様へ
日本の消費者の皆様へ
私たちは、ポエルー、サンマルチン地方のマヨ川とポナザ川流域の350戸の零細農家が組織する有機農業生産者組合です。 謹んで、日本の皆様へご挨拶申し上げます。
現在、トウモロコシ、いんげん豆などの野菜、バナナなどの果実他、様々な農産物を生産しています。その中に生成りの茶色や緑色の綿(カラーコットン)も一緒に生産しています。 綿は主に山の斜面にある畑を利用しています。

農家の人々の手作業、伝統的な方法を行い、有害な化学農薬を使わず、自然を大切にする有機農業を行っています。 有機農業は人間の健康に害を与えることがなく、自然環境を汚すこともありません。 先祖代々伝えられたこの地域のカラーコットンが、皆様に利用されていることを大変うれしく思います。

近年、新たにCEDISA(セルパ・アルタ開発調査センター・NGO団体)より技術面、流通面について支援を得て、私たちの目指す「自然保護と自立」の運動が活発になりつつあります。 私たちのオーガニックカラーコットンを、今後ともどうぞ宜しくご支援いただけますよう御願い申し上げます。

マヨ川流域有機農業生産者組合 APEOCUM理事長
エドガルド・サハミ・クマバ
ソールナッセンテ有機農業生産者組合(ポナザ川流域) AGROSOL理事長
ホルヘ・ダビラ・ダビラ

インドレポートこぼれ話
1.
ボンベイ(現在はムンバイ)は1498年までポルトガルがこの地を支配し、イギリス王室との婚姻に伴って、イギリスへこの地をプレゼントし、以降、イギリスの支配下になった。 なんと乱暴な話と思うが、そういう時代だった。

イギリスの侵出がインド近代化への入り口となったことを考えると、いい面もあったと言っておこう。 きっと色々な悲劇があり喜劇が繰り広げられたことだろう。街は、車と言わず、電気製品と言わず、TATA(タータ)ブランドであふれている。大豪族タータ家はこの地で生まれた。有名なタージマハールホテルのオーナーでもある。日本で言えば三井、三菱クラスの財閥だろう。

すでに国際都市に発展したこの街の名、ボンベイは、州政権の意向で、土着の女神の名、ムンバイに改名した。市民は、あまりに保守的で、近代化に背を向ける政策に不安をもちはじめている。それにしても、船で港からこのムンバイの街を見ると、ビルが林立し、石油コンビナートが広がり、海軍の軍港もあり、海運の要所として貨物船が行き交っている。保守化どころではない。どんどん近代化して、仕事を増し、街をキレイにして、路上生活する家族を豊かにして、観光客を世界中から迎え、誰でも安心して過せる街にしなければいけないと、単純な頭で思いめぐらせるのだった。

2.ムンバイの街中に、高さ5mもあろうかという巨大なガンジー像が、芝生の公園の中心にそびえている。おなじみのメガネに綿布をまとい、杖をついて、どこへやらへ歩いてゆく姿。公園の周囲には、路上生活者たちがごった返して思い思いに煮炊きをして生活している。何気なく眺めていてはっとした。このガンジー像は貧しい旧市街を背に、新市街の高級ホテルが立ち並ぶほうに向かって歩いているではないか。

やっぱりガンジーさんだってキレイなほうがいいのかな、と不謹慎な考えが浮かんで、すぐに自分を恥じた。

3.なぜに、こうインドのドライバーたちは先を急いで暴走するのか、車に乗るたびに恐怖心とともに起きた疑問である。とにかく犬だろうが、牛だろうが、ロバだろうが、時には人だろうが、車の前に現れると、ブレーキは踏まず、クラクションをかき鳴らす。普段インドの人は決して走ったり、急いで仕事を片付ける様子は見せず、むしろゆったりと動く。ところが、車のハンドルを握ると一変して凶暴になる。

インドーレという街から綿畑への3時間、ドライバーは、ひたすら悪路を突っ走った。同じ車の中に居たインドの人たちは、誰も文句を言わず、危機一髪のときも平然としている。ドライバーは、客を乗せているという意識は確かにある。それというのも、急発進はしない。ガタガタ道に来ると、さっとスピードを落として、振動を最小にするよう心掛ける。では何故暴走するのか? 道すがら、車の同乗者が言い出して、お茶でも飲んでひと休みということになった。私とスイス人とそしてインドの人3人が席につくと、店の若者は日本から来た私の姿を見て、よほど珍しいらしく、しばらく立ち尽くしていた。お茶を持って来てくれた。大変低調な様子でお茶を入れてくれる。ところが、このお茶が濃くて、とても飲めない。じーっと見ているので、無理してニコニコしながら飲み干すと、うれしそうに自分の特別サービスが喜んでもらえたことを満足した様子で立ち去った。

なるほど、これで解った。車のドライバーも、このウェイターさんも、客への最大のサービスをしていたのだ。

自動車で客を運ぶという仕事で最大のサービスは、一刻も早く到着させることなのだ。それが証拠に、大体、到着するとドライバーの人たちは自動車を止めて、木陰でゆったりと昼寝を楽しむ。そんなに時間があるのなら、ゆっくり走ってくれればよいのにと思うのは、日本社会から来た人間の考えることなのだ。

インド最後の日、ホテルで用意してくれた車に乗って空港に向かった。真っ白い制服を着たドライバー、日本の車、料金は、街のタクシーの3倍。思い切ってドライバーに頼んだ。「時間はたっぷりあるので、ゆっくり安全に空港へ行ってください。」すると、「OK,OK」と二つ返事。「時間がそんなにあるのなら、おみやげ屋に連れてゆこうか?」などと勘違いの提案をしてくる。走り出して、しばらく陽気に街の歴史などしゃべっていた。なるほどゆっくり走ってくれた。ところが、30分くらい走って会話が途切れたあたりから、段々と暴走タクシーに戻って行った。予定よりかなり早く着いてしまった。
暴走もサービスと納得したのが、どうも間違いだったようだ。ただのクセだったのだ。

4.ムンバイの名所、インド門を一望できるところに座って、のんびりとビデオで風景を撮っていると、痩せて神経質そうな猿を連れた男が来て、俺の猿をビデオで撮れと言う。どうでもよかったが、あまり強く言うので、ビデオを猿に向けると、嫌がって歯をむき出す小猿に無理やりサングラスを付けさせ、体を振らせ、「マイケルジャクソン!」と声を張り上げショーに仕立てている。日光猿軍団のような、人と猿の信頼感は感じられない。ほとんど主人に反抗しながらの演技だ。気がつくとどこからか人々が20~30人も集まって人垣ができていた。ショーが終わったらしく、男は私のところに来て手を出し、「5ドル出せ」と言った。勝手に見せて、怖い顔をして5ドルを凄む。

「勝手なことを言うな」と抗議すると、「これを称してモンキービジネスという」と本気で言っている。ポケットをさぐって、10ルピー札を渡そうとすると、腕をつかんで少ないと言う。ここに来るまでの交通費や、猿のエサ代がかかっているんだからもっと払えと言う。周囲は、相変わらずこのやりとりを全員上目使いでにらんでいる。孔雀の羽を売る男、バケツの中のアイスキャンディーを売る男、地図を売る男、体重を測って料金を取る男たちがジーッと私の反応を見ている。頭の中に高速で色々な考えが巡った。100ルピー出して立ち去るか、何も渡さず逃げるか? 大きな金を出せば、次から次と際限がなくなる。危険を感じた。ポケットから手当たり次第小銭を握って男の手の中に押し込み、「がっかりしたぜ」という捨て台詞を残して、人垣を掻き分け近くのタージマハールホテルに逃げ込んだ。このホテルは超高級ホテルで、この手の人たちには、ガードマンの制止で、一歩も中に入れない。観光客の私たちはどこでもフリーパスで入れる。ヒンヤリしたホテルのロビーに座って、興奮が段々納まってくると、たかが50円だ、100円だで、こんな大さわぎしたことがおかしくなって、やがて、あの猿の姿が哀れで悲しく思えてきた。