19世紀にバングラディッシュ(現ダッカ首都)でシルクを越える綿がありました。
その綿を手で紡ぎ300番手くらいの極細の糸を作り、熟練工の手で織り上げられた布地は7枚重ねても肌が見えたというくらい極く薄く、ダッカモスリンと呼ばれました。
産業革命以降のイギリスの綿産業の圧倒的な支配力の中にこの可憐な綿は姿を消してしまいました。ダッカ独特の湿気の強い土地柄でないと糸は紡げなかったといわれている伝説の綿織物です。ある会合で大正紡績の近藤さんが話された「ダッカの霧」という魅惑的な響きに引き込まれました。調べてみると、なんともおぞましい「悲劇」が見えてきました。

悲劇のダッカモスリン

「産業革命の群像」 (角山 栄著 清水新書)という本に次のような記述があります。

「19世紀はじめまでインド、現在のバングラディッシュのダッカは、その美しい織物で世界に名を知られていた。その織物がいかに高級で繊細な美しさに満ちていたか。インド婦人が身に着けるサリーは今では5メートル半の一枚のプリントを腰に二巻きするだけだが、昔はそれを七巻きしたものである。それほど美しい蝉の羽のように透き通った織物であった。とてもイギリスの機械製綿布をもっては太刀打ちできるものではなかった。
しかしこの優れたインド織物工業を潰さないかぎりイギリス綿布はインド市場に入り込むことができない。そこでイギリス人は何をしたか。インド綿工業を絶滅させるためには優れた職人の技術をこの世から完全に消してしまうことである。「邪魔者は殺せ」これがイギリス人のやり方であった。ダッカの職人はやってきたイギリス人によって両腕を切り落とされた。それでも足りないときは両目をくりぬかれたのだ。
この話はインド人の間で先祖代々語り伝えられているのか、私は同じ話を何度も聞いた。それを語るときインド人はきまって興奮に打ち震え、こぶしを握り締めながら顔面を怒りでこわばらせた。確かに文献によればインド最大の綿業の中心都市ダッカの人口は18世紀末の15万人から1840年ころにはわずか2万人に減少している。」

イギリスの提督自身が「この惨状は商業史上例を見ない。ダッカの地は白骨で満ちている」と書き残しているというほどだそうです。

イタリアベニスを訪れた時、案内してくれた人が話してくれたことです。
当地の名品ベネチアングラスは、技術が拡がらないように、ムラーノと言う小さい島に職工を閉じ込めました。逃亡するとどこまでも追いかけて命を断ったとのことです。

現代では考えられないくらい人の命は低く見られていたのです。

日本オーガニックコットン流通機構
理事長 宮嵜 道男